定山渓温泉

定山渓に行く時期は「今は紅葉の見ごろ」とテレビで紹介される時が多い。だが、満足の行く写真が撮れた例しがない。これは見ごろの解釈をどうするかにかかっているのである。XP時代のShogakukan Bookshelf Basic Version2.0(Windows8.1のHDで動作中)によると「見頃とは見るのに最もよい頃合」とある。つまり、その年の見頃であって、絶対評価ではない。どの程度かは現地に行って自分の目で確かめるしかないのだ。

定山渓温泉中心地できれいだった所はカッパ橋に行く遊歩道の一部分だけだった。(撮影日:2014/10/18)
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「かっぱ」は定山渓のマスコット。従って、かっぱ像は温泉街のあちこちで見られる。これは定山渓二見公園の入り口にある河童の像。
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定山渓温泉街中心部から上って行くと、岩戸観音堂と長寿と健康の足つぼの湯がある。この日も何人かが足湯を楽しんでいた。
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その岩戸観音堂の脇に「定山渓温泉の由来」と言う大きな案内板がある。それによると、
安政五年(1858年)一月松浦武四郎が幕府の命により道路適地調査のためアイヌを道案内として虻田より中山峠を越えてこの地に到着。岩間に浴槽を堀り旅の疲れを癒やし一泊した。これが温泉のはじめである。
慶応二年(1866年)美泉定山という僧がアイヌに天然の湯が湧き出て傷ついた鹿が湯あみしているなどの話を聞き此の地を確認して再び此所を訪れ寝食を忘れて温泉開発に努力した。しかし札幌から三〇粁余りの山道はけわしく先ず道路の開発が第一であったので、幕吏葛山男助と共に附近の住民を動員して困難な工事に着手した。間もなく明治維新となり折角着手した道路開発も中止する有様であったが遂に岩村通俊判官との交渉が成立し判官は道路を開き、温泉の湧き出る所に六.五坪の休泊所を建設して浴槽を造り明治四年七月岩村判官は定山に湯守を命じた。この年の秋虻田から中山峠を越え札幌間の東本願寺街道(道幅二.七米)が完成した。
此の道路の検分には・・・
と続くが長いので、ここまで。

これを読むと、この美泉定山(1805~1877)の名前にちなんで、定山渓温泉と命名されたことが分かる。この人の像は定山源泉公園で見ることができる。

ここでも足湯をやっている人が何人かいた。今度は私もやって見るか。自撮りの研究をしなくては。